昭和初期、平岸は昭和恐慌と作柄不況のダブルパンチに苦しんでいました。そんな平岸りんごの窮地を救ったのが「りんごの神様」と呼ばれた北海道帝国大学農学部の島善鄰でした。
島が青森県農事試験場の技師を勤めていた大正時代、青森は相次ぐ病害虫の発生により年々生産が減少していく危機的な状況に直面していました。島は豊富な知識と緻密な現地調査の結果から、それまでの栽培法を一変させる「青森式栽培法」を実行し、青森を現在に至るまでの「りんご王国」とした立役者でした。
北大赴任後の昭和9年に平岸小学校の校庭で講演会を行い、青森で蓄積してきたりんご栽培のノウハウを何ら隠すところなく披歴しました。講演終了後は、りんご園の視察に赴き、実地に指導してくれました。
翌昭和10年には島のあっせんにより平岸の若手10名が弘前のりんご農家に修行に出向きました。一冬作業を共にし、青森式栽培法を身につけた彼らは「剪定仕立法、施肥薬剤散布について合理的なものをみて帰村後、これをひろめて」いきました(平岸百拾年)。
平岸の農家が共同選果場を作る際にも、島は道庁にかけあって補助金を交付してもらえるよう働きかけてくれました。
補助金の交付を受けられるよう1階は貯蔵庫、2階は作業場とするよう設計方針をアドバイス。島の働きかけや平岸の農家の熱意が認められ、総工費の3分の1にあたる800円が補助金として支給されることになりました。
残りの2300円を銀行などから借り入れ、その返済は選果場収入(りんご貯蔵料や選果手数料など)によって償還することとし、昭和13年10月15日に下本村共同選果場が竣工しました。(続く)