開拓使麦酒醸造所が札幌でビールを作り始めたのが明治9年。札幌にビールびんの製造工場ができるのは、それから実に24年後の明治33年になります。
明治初期、日本の工業水準ではビールの炭酸ガスの圧力に耐えうるビールびんを作ることができませんでした。
そこで、開拓使麦酒醸造所は空きびんを買い取って再利用したり、陶器や白磁のビールびんを有田焼で有名な有田などに発注して間に合わせていました。
しかし、ビール文化が根付き、需要が急増してくると、それだけでは間に合わず自前でビールびんを作る必要に迫られます。そこで、大きな役割をはたすのが、今から4万年前に札幌の街を覆い尽くした支笏火砕流です。
明日2月15日折り込みの道新りんご新聞で連載中の平岸の歴史を訪ねてでは、「ビールびんと火砕流」をテーマに開拓事業の象徴であるビールと自然がもたらした火砕流との意外な関係をご紹介いたします。
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