平岸の歴史を訪ねて入植編を更新しました。『第22回 移住者たち』では、水沢から平岸への移住を率いた3人のリーダーの足跡に焦点をあてました。
そのうちの一人、吉川太左ヱ門は元鉱山技師という一風変わった経歴を活かし、明治20年に南区の小金湯温泉を発見し、温泉旅館「吉川旅館」を開業しました。
吉川旅館はその後何度か所有者が変遷し、昭和17年には黄金湯温泉旅館として開業しましたが、2007年に廃業。翌年には、跡地に「湯元小金湯」がオープンしています。
吉川太左ヱ門の一人息子が鉄之助。明治4年13歳で両親とともに平岸に入植しました。
その後、開拓使の農業修行人に採用され、平岸での洋式農法の普及に取り組み、札幌農学校教頭であったクラーク博士からも教えを受けています。
明治20年に平岸を去り、長沼の最初の開拓者となります。開拓初期はバッタと霜の害に遭い、鹿肉などを売って飢えをしのいだそうですが、すぐに軌道に乗ります。
明治25年に開村する際、住民たちが鉄之助の功績をたたえ「吉川村」と名付けようとしましたが、固辞しました。鉄之助の功績が縁となり、長沼町と水沢市(現在は奥州市水沢区)は昭和48年姉妹都市となっています。
昭和56年に長沼町が水害に見舞われた際、水沢市から多くの見舞金が寄せられました。平成20年に岩手・宮城内陸地震が起きた際には、「今度はこちらから」(板屋町長・当時)と、広報無線を使って全世帯に被災者への募金の協力を呼びかけています。
『第23回 麻畑村』では、開拓当初「麻畑村」と呼ばれていた由来や、今に残る痕跡について紹介しています。
麻から作られる網やロープは、開拓初期の北海道の工業や漁業の発展に大きく貢献しましたが、次第に地力が低下し、徐々に収穫が落ちていきました。
その後、麻から転換しリンゴを植えたところ出来がよく、「平岸リンゴ」として日本を代表する産地となっていくのです。