今月から連載が始まった平岸人図鑑。第1回のゲストは、歌手・加藤登紀子さんの代表曲として知られる「百万本のバラ」を日本で始めて歌った女性ロシア料理&カフェ ペチカ店主の兵頭ニーナさんをご紹介しました。
「百万本のバラ」は女優に恋をした貧しい画家が、家財を売り払ってバラを捧げるというロマンチックな歌ですが、原曲である「マーラが与えた人生」は大国ロシアに翻弄されたラトビアの苦難を暗示するものでした。
今回のコラムでは、平岸人図鑑には書かきれなかった「百万本のバラ」をめぐるエピソードをご紹介します。
「マーラが与えた人生」は、後にラトビアの文化大臣になった作曲家ライモンド・パウルスがソ連統治時代の1981年に作曲し、詩人レオン・ブリディスが作詞しました。
『子供のころ泣かされると 母に寄り添ってなぐさめてもらった そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた』(TAP the POPより)
ラトビアは、大国に挟まれ近隣のロシアやドイツなどによって絶えず侵略されてきました。そんなラトビアの悲劇の歴史を「幸せをあげ忘れた」と表現したと言われています。
「マーラが与えた人生」は1982年に、ロシアに持ち込まれ、メロディはそのままに全く異なる歌詞がつけられました。
作詞したのは、ロシアの詩人アンドレイ・ボズネセンスキー。スターリンの死後訪れた「雪解け時代」に、社会の自由化を唱えて反体制的な詩作活動を行い、体制派からの弾圧から逃れてグルジアに渡っていたことがあります。
そこで、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家ニコ・ピロスマニを知ります。ピロスマニは、フランス人の女優マルガリータに恋をし、彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという逸話をもとに、「百万本のバラ」の歌詞が作られました。
「百万本のバラ」を歌ったのはソ連を代表する国民的歌手でモスクワ生まれのアーラ・プガチョワ。多くのテレビ番組やラジオ番組で取り上げられ、ソ連崩壊まで長きにわたって絶大な人気を博しました。
その後、兵頭ニーナさんが「百万本のバラ」とめぐりあい、加藤登紀子さんと出会うエピソードは平岸人図鑑で紹介したとおりです。
「百万本のバラ」はラトビア人が作曲し、グルジアの画家のロマンスが歌詞になり、モスクワの歌手が歌うという、多国籍国家の集合体であったソ連ならではの歌といえます。
さらにそれを日本で広めるきっかくを作ったのは、ハルビン生まれで日本人の父とロシア人の母を持つ兵頭ニーナさんであり、原曲の「マーラが与えた人生」のテーマが大国に翻弄された小国の苦難であることを思うと、運命的なものを感じざるを得ません。
『マーラが与えた人生』
子供のころ泣かされると
母に寄り添ってなぐさめてもらった
そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
時が経って…もう母はいない
今は一人で生きなくてはならない
母を思い出して寂しさに駆られると
同じことを一人つぶやく私がいる
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」
そんなことすっかり忘れていたけど
ある日突然驚いた
今度は私の娘が 笑みを浮かべて口ずさんでいる
「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」