知ってるつもり?奥州藤原氏と平岸の意外な関係

ブラタモリ公式ホームページより
ブラタモリ公式ホームページより

本日放送のブラタモリでは、平泉編として奥州藤原氏が取り上げられました。このコラムでは奥州藤原氏と平岸の関わりを紹介します。

 

奥州藤原氏は四代・泰衡の代に源頼朝により滅ぼされていますが、その後頼朝に代わって東北地方の統治を任されたのが、頼朝の幕僚であり、文官であった伊沢家景です。

 

頼朝の留守を預かる役目から「留守職」と呼ばれる地位につき、いつしか名字も留守氏を名乗るようになります。

大河ドラマ・独眼竜政宗で留守政景を演じた長塚京三
大河ドラマ・独眼竜政宗で留守政景を演じた長塚京三

戦国時代、留守氏は急速に勢力を拡大した伊達氏に取り込まれ、伊達市の一族に組み込まれます。

 

大河ドラマ・独眼竜政宗で長塚京三が演じた留守政景は伊達政宗の父・輝宗の弟にあたります。江戸時代には伊達氏を名乗り、水沢に拠点を移しますが、戊辰戦争の敗戦後はもとの留守氏に戻しています。

 

これは戊辰戦争の敗戦後、1万6千石の石高をわずか60石に減らした仙台・伊達藩の冷たい仕打ちに対する決別の意思であったとも言われています。

明治4年の平岸(北大北方資料室蔵)
明治4年の平岸(北大北方資料室蔵)

60石では家臣を養うことはできず、水沢藩士たちは明治4年新天地平岸への入植をはたします。

 

なお、当時の水沢藩主・留守邦寧は、家臣からの北海道への移住の進言に対し次の言葉で断っています。

 

「如何ニモ北海道ハ魯西亜領ニ接近シ、実ニ日本枢要ノ地ナレバ、衆ヲ移シ屯田拒守セシムハ勿論要スル処ナリ」と北海道の開拓の必要性は認めつつも、「予モットモ其ノ念ナキニ非ズト雖ドモ、性虚弱ニシテ北域ノ寒地ニ耕鋤スル、吾レ其ノ任ニ堪エザル所」であると、体が病弱で寒さに耐えられないという理由で断ってしまうのでした。

 

事実、邦寧は病気がちで、明治7年52才の若さで亡くなります。当主の拒絶は求心性や移住経費の点で大きな障害となり、移住志願者が激減してしまいます。結局、移住を決めたのは25戸だけであり、これでは足りないので周辺村落などから移民を募り、最終的に62戸200人あまりが平岸へ入植することになりました。

 

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