9日・10日に天神山文化祭で行うまち歩きイベントの下調べに、先日精進川の精進の滝に行ったところ、川底に大きな魚の影を2匹発見しました!
サケと思われたその魚は、今にも滝登りしそうな雰囲気を漂わせていました。
さて、精進川のサケといえば、明治4年に水沢からやってきた当時9才だった松井新四郎さんが後に語った面白いエピソードがあります。
以下、平岸の歴史を訪ねて~入植編 第20回.開拓風景①から抜粋します。
『移住当初、何もすることがないので、父親と弟を連れて大きな水の音がするところへ行ってみようということになり、鎌や斧を持って出かけ、大木をかき分け、やっとの思いで崖を降りて豊平川(今の精進川のこと、当時は豊平川の分流だった。詳しくは自然史編第6回参照)まで下ると、川の中は水の底が見えないほど大きな気味の悪い魚がうようよ泳いでいるのが見えました。』
『松井さんは大喜びで、手に持っていた鎌でその魚をひっかけ、20匹も釣り(?)あげて、大骨折って持って帰り、皆に見せると、鮭という魚だと言って皆で鎌を持って取りに行き、そのうち鎌などでは面白くないというので、国から持ってきた麻糸を出し合って大きな網を作り、網で大量に取りはじめました。その頃は、一軒に20本や30本鮭が軒先に下がっていない家はなかったそうです。』
引用終わり。
このエピソードで面白いのは、サケが川底が見えないほどひしめいていたということと、麻糸から簡単に漁網を制作したという点です。
水沢からの移民たちは、開拓当初、故郷の特産物である麻を植え、それを漁網などに加工することで生計を立てる計画でした。この計画は、平岸の土地が痩せていたためうまく行きませんでしたが、明治4年から8年までの5年間、平岸は“麻畑村”の名前で呼ばれており、今でもその痕跡をたどることができます(平岸の旧地名“麻畑村”の痕跡を探る)。
さて、私が見かけた“サケ”ですが、どうも10年ほど前から同じような目撃情報が多数寄せられているそうですが、寒地土木研究所月報によれば、その正体はサクラマスのようです。
市民団体「中の島魅力づくりの会」が20年ほど前から、毎年春にヤマメ(サクラマスの稚魚)の放流を行っており、はじめは戻ってくる魚もいない状態でしたが、年々遡上する数が増え、近年では産卵床や稚魚も確認されているそうです。
かつてコンクリート三面張で、生活用水が垂れ流されていたドブ川だった精進川も、自然を活かした川づくりによって、今では都会のオアシスになっています。本物のサケが戻ってくる日も遠くないかもしれません。
※関連記事:平岸の歴史を訪ねて in 天神山文化祭