月寒東2条2丁目に、緑の木々に囲まれてひときわ赤レンガが映える重厚な洋館がたたずんでいます。
現在、「つきさっぷ郷土資料館」として活用されているこの建物は終戦時、北の守りを担った旧陸軍第五方面軍の司令官・樋口季一郎中将の官邸でした。
「命のビザ」で知られる外交官・杉原千畝が本国の意向に反して、ユダヤ人にビザを発給し、多くの命を救ったことは知られていますが、シベリア鉄道の出口にあたる旧満州ハルビンで、数多くのユダヤ人難民を救った「オトポール事件」のことはほとんど知られていません。
この事件を指揮したのが、当時関東軍の対ソ情報活動を統括するハルビン特務機関長だった樋口季一郎です。
「オトポール事件」は長年、その詳細がわかっていませんでした。それが明らかになったのは、1994年の北海道新聞の戦後50周年企画「戦後50年 満州ユダヤ脱出行 将軍・樋口の決断」によってです。
この特集では樋口の回想メモや、生き残ったユダヤ人の証言などにより事件の真相に迫っています。
シベリア鉄道の支線が満州に入るソ連側国境の駅・オトポールにユダヤ難民が到着したのは1938年3月8日。ドイツではすでにヒトラーが総統となり、ユダヤ人の排斥が始まっていました。満州国外交部は友好国ドイツへの配慮から入国を拒否。寒さ厳しいシベリアの雪原に集団が野宿する事態となります。
ハルビン在住の極東ユダヤ人協会会長・故アブラハム・カウフマン博士が親交のあった樋口氏に救援を懇願。樋口氏は「人道上の問題」として即日食料と衣類・燃料を支給し、病人への加療を実施します。さらに入国許可を外交部に求め、南満州鉄道の松岡洋右総裁(後に外相)にも交渉、特別列車を仕立ててハルビンに難民を迎え入れました。
これを皮切りに、1941年の日米開戦まで数千人がこの鉄道ルートを通って上海や天津に逃れました。この功績をたたえ樋口はエルサレムのユダヤ国民基金の記録簿「ゴールデンブック」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と記されています。
戦後、スターリンは占守島の戦いで苦戦を強いられた意趣返しとして、樋口を「戦犯」に指名します。世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界的な規模で樋口救出運動を展開。結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護しました。
娘婿で海軍将校だった橋本嘉方さんが戦後、「もう二度と戦争はないでしょう」と尋ねたのに対し、樋口は次のように語りました。「民族と宗教がある限り、戦争はなくならないよ。中東あたりは危険だ。」