昨日、北大で「豊平川のカムバックサーモンの過去・現在・未来」というタイトルで北海道区水産研究所(昔のサケ・マスふ化場)主任研究員森田健太郎氏による講演会があり、将来の「平岸の歴史を訪ねて」に備えて参加してきました。
カムバックサーモン運動をご存知ですか?昭和40年代、生活排水や工業用水の流入で、豊平川の河川環境が急速に悪化。かつて、川を埋め尽くすように遡上していたサケがまったくいなくなるという事態になりました。
いなくなったサケを呼び戻そうと、札幌市民たちが行政・経済界・メディアに働きかけ、川の水質浄化に取り組んだ日本で初めての自然保護活動でした。この運動は、同様に水質悪化に苦しむアメリカやイギリスのテムズ川などにも広がります。
自然環境の回復と放流事業により、サケの遡上が回復し、今では自然産卵したサケが回帰するまでになりました。
サケは古来より貴重な食料源として、札幌の人々の暮らしを支えてきました。
石狩紅葉山遺跡では、縄文人がサケ漁に用いた木製の柵が見つかっています。また、北大構内にある擦文時代の遺跡からも、サケを捕まえる定置漁具が見つかっています。
アイヌはサケをシペ(本当の食べもの)または、カムイチェプ(神の魚)と呼び、明らかに他の魚とは区別された特別な存在でした。
明治4年に水沢から平岸へ入植した移民たちとサケの面白いエピソードがあります。
移住当時9才だった松井新四郎さんが明治31年に「北海道毎日新聞」に語った話によると、移住当初開拓地がなかなか決まらず、何もすることがないので、父親と弟を連れて大きな水の音がするところへ行ってみようということになりました。
鎌や斧を持って出かけ、大木をかき分け、やっとの思いで崖を降りて豊平川(今の精進川、当時は豊平川の分流だった)まで降りると、川の中は水の底が見えないほど大きな気味の悪い魚がうようよ泳いでいるのが見えました。
松井さんは大喜びで、手に持っていた鎌でその魚をひっかけ、20匹も釣り(?)あげて、大骨折って持って帰り、皆に見せると、サケという魚だと言って皆で鎌を持って取りに行き、そのうち鎌などでは面白くないというので、国から持ってきた麻糸を出し合って大きな網を作り、網で大量に取りはじめました。その頃は、一軒に20本や30本サケが軒先に下がっていない家はなかったそうです。
このエピソードは、開拓当時の移民たちにとってサケが貴重な食料源となったことを意味するだけでなく、水沢からの移民が麻の加工技術を持っていたことを意味します(関連記事→なぜ電柱に昔の地名が残されるのか?“麻畑村”の痕跡を探る)。
カムバックサーモン運動により、サケが戻った豊平川ですが、人工ふ化により放流されたサケは自然産卵したものに比べ、適応度が低く、遺伝的多様性を喪失させる問題点が指摘されています。また、最近の研究により、自然環境が回復した河川では放流事業に頼らなくてもサケが戻ってくることがわかってきました。
現在は、自然産卵したサケの保全を優先し、必要最小限に放流数をコントロールする「札幌ワイルドサーモンプロジェクト」がスタートしています。カムバックサーモン運動は形を変えて、現在にも引き継がれているんですね。