月寒にある平和公園の一角に軍馬忠魂碑があります。
戦争では人命だけでなく、軍馬も犠牲となります。
昭和7年に関東軍の謀略により中国東北部に満州国が建国されると、それに反対するゲリラ闘争が激化。鎮圧のために派遣されたのが、北海道の第七師団でした。
月寒からも歩兵第25連隊が派遣されます。
この部隊は連隊長鯰江正太郎少佐の名をとって、「鯰江部隊」と呼ばれました。
月寒の連隊営門から満州国に向けて出征する様子を写したのが下の写真になります。
写真右側中段にメガネをかけた将校が写っていますが、この人が鯰江少佐です。
中国人から見れば植民地開放闘争、日本人からはテロリスト掃討という対決の縮図は、この時ばかりでなく、今も世界各地で続いています。
このとき、部隊の派遣に伴って、軍馬も多数派遣されました。
機械力に劣る日本陸軍では、馬や人力で輸送を行うことになっていました(この旧態依然とした考え方は機械化されたソ連軍や米軍によって完膚なきまでに叩きのめされます)。
兵士の値段が一銭五厘(兵士を招集するハガキの値段)と軽んじられたのとは対照的に、軍馬は今の輸送車の役割を担う「生きた兵器」として手厚く扱われました。
部隊とともに軍馬は小樽港からあいだ丸に乗船し、満州へ向かいます。
道無き道を進む難行軍に加え、北海道とは全く異なる気候、不衛生な環境などが原因で、軍馬の間で伝染病が蔓延。感染した20頭が月寒に送り返されましたが、結局すべて薬殺され、遺体は焼却された後、陸軍墓地に埋葬され、軍馬忠魂碑が建てられました。
鯰江部隊の派遣により、満州国の治安は回復したものの、それは一時的なものに過ぎず、結果として日本は日中戦争の泥沼に足を取られていくことになります。
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