歴史マニアの間では常識ですが、電柱のプレートに昔の地名が残されている例が多々あります(マニアの常識は一般人の非常識ですが)。
一昨日放送のブラタモリでは、京都伏見の大名屋敷跡に「福島」とか「毛利」といった名前が電柱に残っているという話がありました。
なぜ、電柱に昔の地名が残されるケースが多いのでしょうか?
電柱は、各変電所から枝分かれするひとまとまりのグループに分けられ、そのグループごとに地名に由来した名称が与えられます。
例えば、平岸界隈では、「平岸」や「東山」などがあります。街の発展に応じて、電柱を増やしていきますが、一つの変電所から送電できる電力には限りがありますので、そういった場合には新たに変電所を建設し、電柱に新たな名称をつけることになります。
しかしながら、既存の名称は使えないので、電柱の命名担当者(そういう人がいるのか知りませんが)を悩ませることになります。
かくて、担当者は、その土地の歴史を調べ、昔の地名などを引っ張りだしてくるのです。
・・・以上の話は、すべて私の想像です。
というは、以前北電とNTTに電柱の命名基準を伺ったところ、保安上の理由で一切回答できないと言われたからです。しかし、使える地名に限りがあるので、昔の地名を使い回しているというのは合理的な解釈だと思います。
さて、平岸にも昔の地名に由来する電柱があります。
南平岸駅前のマックスバリューの一帯(平岸3条10丁目~13丁目)にある電柱に「麻畑北幹」というプレートが貼られています。
この話は、平岸の歴史を訪ねて~入植編 第23回.麻畑村に詳しく書きましたが、簡単に説明します。
平岸の開拓は、明治4年岩手県水沢からの集団入植に始まります。水沢は江戸時代には麻の一大生産地として知られ、麻から作る漁網はその品質の高さから東日本の漁村で圧倒的なシェアをほこりました。
ちなみに、水沢漁網は合成繊維の登場とともに姿を消しましたが、長年培った繊維製品の加工技術は今なお受け継がれており、デサント水沢工場で作られた「水沢ダウン」は、バンクーバーオリンピックの日本代表選手団の公式ウェアに採用されています。
それはさておき、平岸への移民も当初は麻を植え、網やロープを作り生計を立てる予定でした。
しかしながら、平岸は麻が育つには地味が痩せており、この計画はうまくいきませんでした。
窮地に陥った平岸村民がわらにもすがる思いで、取り組んだのがりんごの栽培です。
この辺りの話は、なぜ平岸はりんごの産地となったのか?キーワードは”平岸の地質と気質”に書いてますので、詳しくはそちらをご覧ください。
かくて“麻畑村”という名称は明治4年からの数年間という短い期間で姿を消すことになります。
しかし、はるか後年になって、電柱の名称として蘇ることになったのです。
なお、「麻畑」以外にも札幌には昔の地名が電柱に残されている例があります。
札幌時空逍遥さんのサイトによれば、中の島にある水産総合研究センターは、以前は北海道さけ・ますふ化場と呼ばれており、その一帯には「ふ化場」と書かれた電柱があるそうです。
他にも、「月寒駅前」(昭和51年廃止)や「十二軒」(宮の森地区の旧称)といった電柱がありますし、探せば、まだまだ見つかりそうですね。なお、ダメ元で北電とNTTに札幌の電柱名称教えてくださいとお願いしたところ、保安上の理由で・・・と断られました。
電柱についている昔の地名をご存知の方いらっしゃいましたら、お知らせください。
今後は、電柱の名称をチェックするのを癖にしようと思います。