ブラリンゴ アンパン道路編#6.平岸村独立運動

地震関係の記事を優先させていたため、しばらく間が空いてしまいましたが、ブラリンゴ アンパン道路編の続きです

 

望月寒川を渡り、ほどなくすると、急カーブの坂になります。

その坂のふもとに、一基のモニュメントがたたずんでいます。

真ん中が茶色に彩られ、丸くデザインされています。

アンパンをイメージしたものなのでしょう。

 

「明治44年旧歩兵第25連隊兵士の労力提供と地元民の奉仕により完成 昭和62年12月」

と書いてあります。

 

アンパン道路建設のきっかけは、明治43年に当時の豊平町のうち豊平地区が札幌区に編入され、役場が豊平から月寒に移転したことによります。

 

旧豊平町は、現在の南区すべてと豊平区の一部からなる地域で、月寒はその北東の末端に位置します。

 

当時、平岸と月寒とを結ぶ道路はなく、平岸から月寒に行くには、平岸街道を北へ豊平地区まで進み、その後札幌本道(現国道36号線)を南東へ折り返すという遠回りのルートしかありませんでした。

吉原兵次郎町長(北海道人名辞書より)
吉原兵次郎町長(北海道人名辞書より)

当時りんご栽培で潤っていた平岸にすれば、月寒に役場を持っていかれるのは面白くないという感情もあったのでしょう、ついには平岸村の分離独立運動まで起きる事態となりました。

 

この事態を重くみた吉原兵次郎町長は、月寒に役場を移す見返りとして、両地区の連絡道路を建設することで事態の突破を図ります。

 

しかし、道路の建設は容易なものではありませんでした。当初は今の月寒公園の北側を経由する比較的工事が簡単な経路を予定していましたが、陸軍の射撃場を横切るルートは流れ弾の危険があり、計画の変更を余儀なくされました(アンパン道路編#5参照)。

 

結果として丘陵地を切り開き、水田の埋め立てなども必要な難工事となり、町の予算ではとても完成の見込みが立たない状況に追い込まれました。

 

この状況に苦慮した吉原町長 は、当時月寒に駐屯していた歩兵第二十五連隊の稲村新六連隊長に相談。事情を説明すると、稲村連隊長は演習の名目で兵力の出動を約束してくれました。

 

吉原町長自身、屯田兵のあがりであり、日清戦争に従軍し功をあげています。稲村連隊長にしてみれば、先輩の顔を立てるという気持ちもあったのかもしれません。

 

こうして、明治44年6月に、歩兵第25連隊の応援を受け工事を開始。住民も馬車や労力を提供し、軍民一致の努力で作業は順調に進められ、約5カ月後の10月29日に道路は完成しました。

 

工事の期間中、住民は感謝の気持ちを込めて、協力してくれた兵員に、毎日あんぱん5個をおやつとして配給し労をねぎらいました。そのことから、 完成した道路は、「アンパン道路」と呼ばれるようになったのです。

豊平区役所
豊平区役所

なお、分村運動のきっかけとなった役場は、昭和49年現在地に移転しました。平岸の住民にとっては、移転騒動から実に60年以上経って願いが通じたということになります。

 

歴史に“もし”はありませんが、もしアンパン道路が建設されることなく、平岸村が独立していれば、平岸は南区と合わせて“平岸区”となっていたのかもしれませんね。

 

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