北海道新幹線開業から1ヶ月が経ちました。函館市内の主要ホテルはGW期間の予約申し込みが殺到し、3月中にほぼ満室となったようです(詳しくは、どうしん電子版の記事をご覧ください)。
青森と函館を結ぶ青函圏・・・歴史をさかのぼると、実に1万年以上前から強い結びつきがあったことがわかっています。
縄文文化とひとくくりに考えてしまいがちですが、縄文期の日本は多様な文化が共存する現代風に言えば、多民族社会でした。
日本列島は、縦に細長く、亜熱帯から亜寒帯まで北と南で気候が全く異なります。気候が異なれば、動物相も植物相も異なります。
当然、地域によって狩猟や採集のスタイル・道具なども異なり、そのことが異なる文化を並立させる要因となりました。
縄文時代の日本の文化圏をよく見ると、青森を含む北東北と函館を含む道南地方が同じ文化圏だったことがわかります。
平岸はこの文化圏の北端に位置していました。
その証拠となるのが、天神山遺跡から出土した円筒式土器です。
このタイプの土器が、この文化圏のトレンドでした。
各文化圏が、海を越えて広がっているのを見ればわかるように、海は文化の障害とはなっていなかったようです。
このことは、縄文人が優れた航海術を持っていた証といえます。
津軽海峡は、もっとも狭いところで20kmの幅しかありませんが、この海峡を渡るのは簡単なことではありません。
日本海から太平洋へ対馬暖流が流れているためです。津軽海峡を直進しようとしても、東へ流され、下手をすれば、太平洋を漂流することになります。
縄文人がどうやってこの海峡を突破したのか?
残念ながら直接的な証拠はなく、空想するしかありません。
そのヒントとなるのが、北前船です。
江戸時代、北前船は対馬暖流に巻き込まれるのを避けるため、青森県の日本海側から大きく西の沖合へ進み、津軽海峡そのものではなく、海峡の西側の海流が弱いところを横断し、松前へ渡っていました。
縄文人もおそらく同じコースを通っていたのでしょう。
津軽海峡を越え、北海道の黒曜石が本州へ、また本州(糸魚川産)のヒスイが函館へ運ばれていました。
新幹線ができる1万年以上前から青函圏は強く結ばれていたんですね。
関連ページ→平岸の歴史を訪ねて縄文・古代史編