平岸高台を東西に横切るアンパン道路。
大正7年の地図を見ると、アンパン道路に直角に交わる一本道が走っているのがわかります。
勘違いされている方が多いのですが、平岸高台地区に初めて出来た道路はアンパン道路ではなく、この南北に伸びる一本道になります。
この道は以前は東裏本通と呼ばれ、現在は豊平平岸霊園線と名付けられています。
この一本道はいつごろ、だれが、何のために作ったのでしょうか?
在りし日の東裏本通を写した貴重な写真がこちらです。
昭和31年に、今のHTBから美園方面に下る坂を写したもので、現在右側にHTBがあり、左側はエメラルド・グリーンヒルズという5階建ての大型マンションが立っています。
写真右から二人目の少年は、平岸4条11丁目に今も住まれているO氏であると本人から伺ったことがあります。
明治43年の地図を見ると、「東裏」と書かれた地名を挟むように、2本の道路が高台方面に伸びているのがわかります。
左側の道が東裏本通、右側の道が後の羊ケ丘通になるわけですが、ここでこの道路が作られた経緯を考えてみましょう。
道路というのは、普通集落と集落を結ぶものです。しかし、この道路は、高台で止まっています。もちろん、当時、高台には誰も住んでいませんでした。
この謎について郷土史「さなぶり」では、この道路が豊平地区から伸びていることに着目して、以下の説を述べています。
当時の豊平地区は、札幌市内の建築に従事する大工が多く暮らす場所でした。
建築に欠かせないのは、木材。
つまり、この道路は豊平地区に住んでいた大工たちが、高台地区から集めた木材を運搬する道路として作られたという説です。
事実、高台地区の森ははわずかな年月で切り倒されて丸坊主となり、このあたりは誰言うとなく「ぼうず山」と呼ばれるようになりました。
昭和中期になって、定鉄バスがこの地にバス停を作るとき、周囲には平岸霊園や火葬場があり、そのうえ「ぼうず」では縁起が悪いということで、「東山」という地名がつけられました。
今でも、付近の小学校や町内会などにその名が使われています(平岸の歴史を訪ねて開拓編 第33回.東裏の発展①参照)。
続きはこちらから→ブラリンゴ アンパン道路編#4.道路はまっすぐ作れない~三叉路の作り方