明治4年3月、水沢藩士ら202人は、水沢を発ちます。
彼らの服装は、股引、脚絆、風呂敷、編笠、足袋、草鞋に刀を腰に差し、ちょんまげ姿であったそうです。
このような大集団が水沢を出発することはかつてなかったことで、見送りの跡呂井船場では親類はじめ大勢の見送りを受け、後ろ髪をひかれる想いで先祖代々の土地を離れました。
このときの水沢から平岸への詳細な旅行記録が、残されています。
17才で移住に加わっていた金山セイさんは、昭和10年80才で病没されましたが、亡くなる前年に、平岸下本村農業実行組合の方が、移住当時の話を記録されており、平岸小学校の開校80周年記念誌「郷土誌ひらぎし」に収録されています。
これによると、一行は3つの班に分かれ、順に水沢を出立。
金山さんは第3班に属し、3月2日に跡呂井港から、内陸船の平田船に乗り込んで北上川を下り、石巻に到着。石巻で、函館行の海船に乗り換えます。
この時期の太平洋航路は、波が高く、危険が伴いました。
しかし、移住者たちは、草木が芽吹く前に入植して畑を耕し、種を植えねばならず、危険を承知で航海に出ざるをえませんでした。
激しい揺れに船酔いする者が続出し、へろへろの状態で一行は函館に到着。
なお、平岸出身の文学者、故・澤田誠一氏の小説「平岸村」によれば、この船旅で石川勘蔵・伊千(平岸2条5丁目あたりに入植)の子、喜乃が2歳の若さで亡くなったそうです。
函館からは、陸路で渡島半島を縦断し、駒ケ岳山麓の砂原から船で噴火湾を横断して室蘭へ。
そこからは、徒歩で幌別、白老、勇払、千歳に一泊し、漁(恵庭)を経て札幌へ入りました。
漁にのみ休む家が建っていましたが、あとは山道ばかりで人家もなく、まだ寒い季節の中、野宿で過ごしたようです。
六人家族のものに馬一頭を荷付用としてつけられ、歩けないものも馬に乗りました。
当時、札幌本道(今の国道36号線)はまだできていませんでしたが、江戸時代に幕府が整備した道路と宿場があり、馬はそこで借りたものと思われます。
結局、水沢を出てから20日余りをかけ、惨憺たる苦労の末、平岸にたどり着きます。
なお、その後の入植者たちは、厳しい開拓生活に、土地を手放すものが続出する事態となりますが、金山さんの夫・富蔵氏はひたすら開墾に打ち込み、臨終の際には「陛下から頂いた土地だから、ここを動かないでくれ」と遺言。
今も、その子孫は、入植以来の土地を守り続けているそうです。
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