昨日は北海道新幹線開業のニュースで大盛り上がりの北海道ですが、当ホームページはあくまでも“平岸地域に特化した”情報が売り。
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さて、北海道新幹線を平岸とどう絡めるか?
まだ札幌にも来ていないのに・・・
と悩んだすえに、出した答えが明治4年の水沢から平岸への移住旅行記を現代と比較するという強引な企画でございます。
移住の経緯については、「平岸の歴史を訪ねて~入植編」で書きましたが、戊辰戦争の敗戦で領地を失った水沢藩士たちが、藩主の拒絶にもかかわらず、新天地を目指して平岸を目指す・・・というような経緯です。
移住者は62世帯202人で、明治4年3月のまだ寒い中を、3班に分かれて、旅立ちました。
当時の東北地方の交通機関としては年貢などを運搬する内陸船が発達し、北上川が重要な水上交通ルートとして整備されていました。
盛岡から水沢を経由して、最終的に石巻港に至るルートで、主要な街の近くには船着場が備わっていました。この点、今で言う新幹線と駅の関係に似ているかもしれません。
水沢の近くの船着場は跡呂井(アトロイ)港。
アトロイ、この変わった地名は、今から1200年ほど昔の人物名から取られています。
アテルイ(阿弖流爲)です。平安時代に蝦夷軍を率いて朝廷と戦い、征夷大将軍坂上田村麻呂に敗れ、処刑された人物で、跡呂井は彼の出身地といわれています。
征夷大将軍、すなわち夷(えびす=夷人)を征服する将軍という意が込められた職名ですが、ここでいう夷人とは稲作を受け入れず、縄文時代からの狩猟・採集生活を中心とした集団という意味であり、民族的な違いを表したものではありませんでした・・・このときは。
その後、征夷大将軍は武門の最高位として鎌倉ー足利ー徳川幕府へ引き継がれます。
そして、幕末、本物の夷人=外国人が日本に開国を迫る事態がやってきました。
たかが、貿易問題、開国すればいいじゃないかと思うかもしれませんが、江戸幕府の最高権力者は“征夷”大将軍なのです。
外国人を打ち払うのが、お前の仕事だろ!と日本中の武士から突っ込まれる中、そう安々と外国人と仲良くすることもできず、かといって戦争の危険を背負ってまで敵に回すこともできず、と煮え切らない態度を続けます。
この態度に怒った志士たちが尊王“攘夷”を唱えて、ついに幕府を討ち果たしてしまうというのが、日本史のおもしろいところですね。
坂上田村麻呂の将軍名が、例えば征北大将軍とかだったら、その後の歴史もいくぶん変わったものになったのかもしれません。
さて、その跡呂井港を出発する水沢藩士らの行く先には、その後も過酷な旅路が待ち受けています。
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