本日の北海道新聞朝刊に「平岸の歴史を訪ねて 四ヶ村連合用水と竜神様④」を折り込みいたしました。
上の写真は、平岸街道の真ん中を流れていた平岸用水の写真で、左より、明治末頃、昭和初期、埋め立て直前(昭和36年頃?)のものです。
この折り込みを書いたときには、どのあたりの写真かわからず掲載してしまいましたが、3月12日に行われた「平岸の歴史とリンゴ」の講演会の中で(講演会の内容についてはこちらのページから)、弘前大学名誉教授齋藤健一先生より、明治末頃の写真は平岸3条2丁目(ザ・ビッグ平岸店のあるあたり)から南側を撮ったものであることが判明いたしました。
用水を挟んで右側(西側)の道路を「上の道」、左側(東側)の道路を「下の道」と読んでいたそうです。
「上の道」は、明治14年の明治天皇による北海道巡礼の際、エドウィン・ダンの真駒内の牧牛場へ向かう道として整備され、白い砂利が敷き詰められた整備の行き届いた道路でした。
対象的に、「下の道は」未整備で凹凸が激しく、雨が降ると水たまりやぬかるみがひどかったそうです。
真ん中の写真は、昭和のはじめ頃のもので、電信柱が建ち、自転車をこいでいる人が写っています。
右の写真は、平岸用水が埋め立てられる直前のものです。
このころには、用水は悪臭を放つドブ川のような状態となり、本来の目的であった農業用水としては利用されなくなっていました。
やがて、用水を埋め立て道路を拡幅し、現在の平岸通となったのでした。
左の写真の場所は判明しましたが、真ん中・右の写真は不明です。
右の写真には、「木の花医院」「中出医院」とあります。
ご存知の方おりましたら、教えて下さい(どのあたりからどちらの方角を写したのか)。