本日の道新は朝刊・折り込み・夕刊と平岸の話題満載です。
定山渓を開いた美泉定山と平岸村の関係を示す新たな古文書が見つかったそうです。
小樽で沸かし湯を営んでいた定山がアイヌ民族の若者に導かれ、山越えして定山渓温泉を開いたのが1866年。
今年は、開湯から150周年の節目の年にあたり、様々なイベントが催されています。
明治4年に伊達市有珠地区と平岸村を結ぶ本願寺道路(詳しくは平岸の歴史を訪ねて~入植編~参照)が開通し、視察に訪れた開拓長官東久世通禧は定山の行為に感動し、常山渓(後の定山渓)と命名、定山は温泉守に任命されます。
一方、明治4年、岩手県水沢から平岸へ62世帯が集団入植しました。定山はこの移住者たちを率いたリーダー中目文平をしばしば訪れ、交友関係があったことがわかっています。
中目文平は、平岸用水の建設・平岸小学校の開校など平岸の発展に尽力した人物です。
2016年現在、水沢からの移民はほとんど残っていませんが、わずかに残っている2軒のうちの1軒が中目家であり、中目文平から数えて5代目当主の中目明徳氏は、FMアップル社長として、平岸の文化の発展を支えています。
定山は、中目文平の紹介で平岸村の41歳になる女性キンを妻にし、養子を迎えています。
今回新たに見つかった古文書は、定山を平岸村の戸籍に入れるという内容。
この記事を書いた作家の合田一道氏によれば、定山を温泉守にと指示された開拓使役人は、風来坊のような身元不確かなものを官吏にできないとして、急きょ戸籍を作ったのではないかとのこと。
さらに、定山の困窮ぶりを伝える願文も見つかっています。
温泉守に任命されたものの、温泉場にやってくる人は少なく、生計を立てるために開拓使へ鹿皮の買い入れという新しい仕事で生計を立てたいという願文でした。
その結果は、「鹿皮等之儀ハ一切不獲」であり、定山の困窮ぶりは一段とひどくなったそうです。
定山は1877年突然姿をくらまします。
それ以来長らく、行方不明とされていましたが、1979年小樽市の正法寺で定山の過去帳が発見され、死後100年余りが経過してから法要が営まれました。
定山が開いた温泉は、今では札幌の奥座敷として広く市民に親しまれています。
詳しくは、今日の北海道新聞夕刊5面をご覧ください。