13日 8月 2019
昭和20年7月15日に起こった札幌空襲。豊平区(当時は豊平町)で唯一の空襲被害の記録が、東山小学校開校20周年記念誌『東山』に収録された座談会「東山小・校区東裏の昔を語る」に残されています。「7月15日、豊平神社の本祭りで、朝から3回の空襲警報があり、10時30分頃、千歳線上をグラマン機が月寒から札幌に向かって飛行しているのが見えた。そのグラマン機からの機銃弾が一発、美園3条1丁目の駒崎さんの茶の間の天井を撃ち抜いたが、幸いにも人の怪我はなく、これが豊平区内のただ一発の戦時中の被害であった」と美園地区の農家だった加藤幸作さんが語っています。 お隣の白石も空襲の被害に遭いました。『さっぽろ文庫14巻 昭和20年の記録』には空襲を体験した田中スギさんの記録が収められています。「・・・仕事を始めようとした直前、真夏の青空の飛行機は、バリ、バリ、バリッと機銃射撃をしながら国道12号線沿いに急降下し、私達の頭の上に突っ込んできました。みんなは無我夢中になって畦と畦の間の排水口にうつぶせになって身を伏せたのですが、恐ろしいという言葉どころではなく、生きた心地もありませんでした。・・・敵機のグラマンは、函館本線の白石駅と豊平川鉄橋の中間あたりを進行中の上り列車を銃撃。迷走した機関車は、白い蒸気を噴出して運行不能となりました。射撃のスサマジイ高音。それはそれはオッカナイことでした。・・・その時の客車は穴だらけの屋根、滅茶苦茶の窓のまま、家の隣の東札幌引込線に入って来て、子供たちの格好の遊び場でもありました。」 米軍の主な攻撃目標は飛行場や軍事関連施設(※豊平区でもあった札幌空襲①6つの空爆標的リスト)でしたが、実際には全く無関係の施設や市民も攻撃の対象となりました。機銃による無差別攻撃は札幌だけでなく、道内各地で起こりました。 ・牧場の牛や馬が狙われた。 ・逃げる学生を追うようにして機銃掃射してきた。振り返ると白いマフラーをしていた。 ・伊達の日本赤十字病院(屋根や旗で赤十字のマークが記されている)では患者が1人、入院患者1人、看護婦が1人、看護学生が1人亡くなった。 ・隣の駅で列車が攻撃を受け十数人の犠牲がでた。 ※いしかり市民カレッジ「あの日のいのち~北海道空襲の犠牲者たち~」より 昭和20年7月14日・15日に起こった北海道空襲では2916名が犠牲となりました。このうち228人が16歳までの子どもでした。
19日 2月 2019
7月15日早朝、月寒の防空作戦室から札幌地区に空襲警報が発令されました。米軍側の事前の空爆標的リストには、豊平区(当時は豊平町)の施設はありませんでした(豊平区でもあった札幌空襲①6つの空爆標的リスト)。しかし、実際には豊平区も空襲の対象となってしまったのです。...
18日 2月 2019
米軍艦載機が札幌方面に向かった昭和20年7月15日、その日は豊平小学校(当時は国民学校)の遠足の日でした。当時、同校の3年生だった池上芙沙子さんは『池上商店物語:少女の目で見た昭和史』にこの日の記憶を詳細に綴っています。
10日 2月 2019
月寒中学校の裏手に、2011年に完成した最上11階建ての国家公務員宿舎「月寒東住宅」が立ち並んでいます。ここには2008年に解体されるまで巨大なコンクリート造りの重々しい建物がありました。北部軍管区司令部防空作戦室です。太平洋戦争の開戦に先立つ1941年8月に着工され、翌42年10月に竣工しました。...
06日 2月 2019
札幌には空襲がなかった・・・そう思われている方が多いのかもしれません。しかし、昭和20年7月15日に米軍戦闘機による空襲により、札幌新飛行場(現・丘珠空港)など市内6箇所が機銃掃射や爆弾投下の被害に遭い、犠牲者も出ています。2月2日に札幌大学で行われた公開講座「豊平の戦争の歴史―札幌空襲の伝え手として」の中で、講師の林恒子さんが、一時は歴史の闇に埋もれたその事件について、その詳細を語ってくれました。 硫黄島が陥落し、太平洋の制海・制空権を失っていた昭和20年6月29日。一機の偵察機が北海道に向かっていました。B29を改造したその偵察機は高度1万メートルの上空から千歳、札幌、小樽、室蘭、函館を撮影。札幌市内では平岡・月寒・美園・西28丁目・西野・宮の沢・星置・銭函の上空でシャッターを切り、綿密な空襲計画を作成しました。その結果、①国鉄苗穂工機部、②軽川の日本石油精製所、③札幌飛行場(北24条)、④札幌新飛行場(現・丘珠空港)、⑤帝国製麻会社(北7東1)、⑥帝国製麻琴似工場、⑦北海水力発電所(現・藻岩発電所)の7箇所が空爆標的リストとされました。この時点では、豊平区内には攻撃目標はありませんでした。 昭和20年7月15日早朝、太平洋上に浮かぶ3隻の空母から艦載機グラマンやコルセアが、これらの攻撃目標に対し飛び立ちました。 ※豊平区でもあった札幌空襲②防空作戦室と空襲警報
15日 8月 2017
平岸5条7丁目にある平園公園の一角に三基の石碑が並んでいます。開拓の功労者・重延卯平を称える碑、馬頭観音碑、そして沼田砲兵軍曹忠霊碑です。 この地域はかつて東裏の名で呼ばれていました。明治15年、青森出身の沼田喜代松夫婦が東裏に入植し、その2年後村で初めての赤ちゃん・沼田安太郎が誕生しました。...
19日 6月 2017
「赤い鳥」は大正7年に創刊された童話と童謡の児童雑誌です。芥川龍之介「蜘蛛の糸」や太宰治「走れメロス」などの名作がこの雑誌から誕生し、教訓色に塗り潰されていた従来の児童読み物が、芸術的にも高められていくきっかけを作り出しました。...
14日 8月 2016
『日本のいちばん長い日』として知られる71年前の今日、東京では、一部陸軍将校が、降伏をよしとせず玉音盤の奪回を図り、クーデター騒ぎが起きましたが、札幌でも、一つ間違えば、不測の事態が起きていたことはあまり知られていません。...
18日 7月 2016
月寒東2条2丁目に、緑の木々に囲まれてひときわ赤レンガが映える重厚な洋館がたたずんでいます。 現在、「つきさっぷ郷土資料館」として活用されているこの建物は終戦時、北の守りを担った旧陸軍第五方面軍の司令官・樋口季一郎中将の官邸でした。...
09日 6月 2016
佐藤栄吉(平岸出身)たちが、メレヨン島に向かった昭和19年は、太平洋での敗戦が続き、制海権を失いつつある状況でした。 大本営は、絶対国防圏を定め、その中核としてサイパン島を設定。中国大陸に展開していた陸軍を前線の島々に送り込み始めます。 そのひとつが、太平洋ミクロネシア連邦の小さな環礁メレヨン島です。