開拓編

開拓編では、水不足に悩まされる移民たちが、力を合わせ用水路建設に挑み、平岸のみならず、下流の白石・米里方面まで用水網をめぐらし、水田地帯を作り上げていく過程を追いました。札幌の街は、世界でもまれな短期間で大都市に成長した街ですが、その陰には農民たちの知られざる苦労があったのです。

 

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第30回.平岸用水①(2015/9/15号)

平岸に入植した移住者が最も困ったのが飲み水の確保でした。井戸を掘ったものの良い水は出ず、わざわざ豊平川まで水を汲みに行っていました。困った村民たちは、開拓使から支給された開発金を用水建設費に回し、村民総がかりで用水堀に挑みます。

第31回.平岸用水②(2015/10/1号)

明治5年、開拓ラッシュをむかえた札幌では材木需要が高まっていました。開拓使は、精進川流域を官林に指定し、伐り出した材木を水路で運搬する掘割を精進川と豊平川の間に設けます。しかし、材木運搬のために川があふれたり、汚れる事態が相次ぎ、平岸用水を使っていた村民たちと水騒動が持ち上がります。

第32回.平岸用水③(2015/10/15号)

平岸用水の完成により、開墾が進み、耕地が広がってくると、一本の用水路だけでは足りなくなってきました。こうして、平岸用水に並行して二本の用水路が新たに建設されます。当時の総代人中目文平の日記をもとに、用水路建設の様子を追いました。

第33回.東裏の発展①(2015/11/1号)

平岸街道から見て東側の一帯は”東裏”と呼ばれ、平岸とは異なる開拓の経緯を持っています。最初にこの地に入植した浅利又吉は、高台地域に広がる原始林を伐採し、炭を焼いて生計を立てていました。高台はわずかな年月でまるぼうずになり、「ぼうず山」と呼ばれるようになります。昭和の中ごろ、定鉄バスのバス停ができた際、「ぼうず」では縁起が悪いということから「東山」と名付けられることになりました。

第34回.東裏の発展②~開拓生活(2015/11/15号)

 東裏の本格的な開拓が始まったのは、明治15年に入植した沼田喜代松夫婦によってでした。この頃の東裏は、うっそうとした原始林に囲まれ、「ある朝、家の前の小川で茶碗洗いをしていると、上流からごはんべらが流れてきて、それではじめて他に人が住んでいることが分かった」という状態でした。

第35回.東裏の発展③~重延卯平(2015/12/1号)

東裏のみならず平岸全体に大きな影響を与えた重延卯平は、明治18年東裏に入ります。卯平一家は、働き者で、懸命に開墾に取り組みます。卯平の母テイは、自宅で栽培したとうきびを大通りまで出かけて売り出します。朝もぎのとうきびが焼けると、何とも言えない甘い香りがあたりをただよい、いつしか重延テイがはじめた焼きとうきびは、札幌の秋の風物詩となったのでした。

第36回.東裏の発展④~米作りへの挑戦(2015/12/15号)

明治6年、島松村(現・北広島市)に入植した中山久蔵が米作りに成功すると、札幌でもせきを切ったように米作りへの挑戦が始まります。重延卯平は、何度も失敗を繰り返しながら、これまでの田植え方式の常識を打ち破る画期的な方法で米作りを成功させます。

第37回.四ヶ村連合用水と竜神様①~エドウィン・ダンと真駒内牧牛場(2016/1/15号)

重延卯平の成功を受け、豊平地区一帯が水田地帯へ生まれ変わると水不足の問題が出てきました。その頃、真駒内ではお雇い外国人エドウィン・ダンの指導により牧牛場が作られ、家畜の飲料水用に真駒内用水が建設されていました。この真駒内用水を平岸用水と合流させて、下流の水田地帯へ水を供給する大水路建設の壮大な幕が切って落とされます。

第38回.四ヶ村連合用水と竜神様②(2016/2/1号)

大水路の建設は、①真駒内用水の取入口の改良、②真駒内用水の付け替え、③平岸用水の取水口への水門の設置、④平岸用水の拡幅、⑤平岸用水を起点とした新たな水路網の構築という手順で進められました。郷土史に残された昔の写真や古地図から、大工事の実像に迫ります。

第39回.四ヶ村連合用水と竜神様③(2016/3/1号)

明治27年平岸用水を起点に、豊平~白石方面に総延長23kmに及ぶ大水路網が完成。

平岸地域にあった用水路跡を巡り、住宅地や豊平公園内に残る用水路の痕跡をたどりました。

第40回.四ヶ村連合用水と竜神様④(2016/3/15号)

太平洋戦争の敗戦後、札幌に進駐してきた米軍は、真駒内の種畜場を接収し「キャンプ・クロフォード」を設置。ジープの洗浄などでしばしば用水路が壊されるなど、トラブルが相次ぎます。昭和36年、宅地化が進行し、農業用水として使われなくなった用水路は悪臭を放つドブ川のような状態となっていました。この年、用水路は埋め立てられ、道路は拡幅され現在の平岸通となったのでした。

第41回.受け継がれる郷土信仰~真駒内竜神塚(2016/4/15号)

竜神は、水を支配する神であり、日照りや洪水など水のトラブルに悩まされる農民たちにとって、大事な神様でした。そのため、用水路沿いや湧き水などの水源地では竜神塚をまつっていました。この風習が、明治になって北海道へ移住した開拓者によって持ち込まれました。

第42回.農民たちは竜神を担ぎ、空沼岳を登った(2016/5/15号)

平岸にあっては、平岸用水を含む四ヶ村連合用水が農業の基盤となっており、その源をたどれば、遠く空沼岳に至ります。自然、農民たちは空沼岳を信仰の対象とし、毎年6月に竜神像を担ぎ空沼岳の真簾沼で雨乞いの儀式を行っていました。しかし、用水が埋め立てられ水道が普及すると雨乞いの風習もなくなり、今では竜神地蔵だけが真簾沼脇に静かに佇んでいます。

第43回.竜神様は2度海を渡った 平岸用水竜神様の末路(2016/6/15号)

平岸に入植した人々が最も困ったのが水の確保です。そこで、明治6年に平岸用水を建設。澄川西小のあたりに水門を設置し、精進川の水を引き込みます。昭和5年に、青森の高山稲荷神社からご神体をいただき地域の守り神としました。しかし、水道が普及し、昭和36年に不要になった平岸用水が埋め立てられると竜神様は、南区常盤の桐越家に引き取られ、平成8年もとの高山稲荷神社に返されたのでした。

第44回.世界恐慌と大凶作 龍神に救いを求めて(2016/8/15号)

昭和5年、アメリカで起きた世界恐慌はまたたく間に日本に波及、りんごの価格も暴落し、平岸のりんご農家は大打撃を受けました。追い打ちをかけるように、昭和6年から9年まで大凶作となり、度重なる災害に困窮した人々は龍神に救いを求めたのです。